09.27.09:22
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04.15.18:18
覗き見
ドアに付いている“覗き穴”を覗くことが、私の趣味。
あれは本当に面白い。
1時間でも2時間でも、休みの日は1日中ドアに張り付いて覗いていることが出来る程、面白い。
ここはマンションの一室。
共同の廊下の様子が部屋の覗き穴から見えるのだが、
例えば、向かい側の住人が外出する様子や、部屋の前を通って行く人の様子、それを眺めているのが楽しい。
それだけではない。
時に、ドラマティックな瞬間やハラハラするようなシーンに遭遇出来ることも、この行為の魅力だ。
ほら、小学生が走って追いかけっこをしている。
ドタドタドタ!っと、鬼でも走ってくるかと思うようなすごい音をたて廊下を行き来しているが、この調子では転ぶだろう。
と、思った矢先に、うまいことこの部屋の目の前で1人が盛大に転んだ。
その子は「うぎゃああっ」と泣いてしまい、どうなるかと見守った。
すると、もう1人の子が泣いている子に、ちゅっとキスをして泣きやませた。
その展開に驚いている間に、子供達は、またもとのように右へと走って行ってしまった。
共同の洗濯場へ向かうと思われる小奇麗な若い女性が、洗濯かごを持って右から左へと消えた。
下着を落としたことに気が付いていないようだ。
酔っ払いが壁にぶつかりながら、左から右へ。
幸い、うちの部屋にはぶつからなかった。
胸まである長い髪で顔を隠した女が、のっそり、のっそり、右から左へ消えていった。
別れるとか別れないとか、痴話げんかをしながら左から右へ早足で過ぎていく、見た目の派手なカップル。
会社帰りのサラリーマンが右から左へ。
髪がツンツンの年齢不詳の男性が左から右へ。
財布を手に握り、サンダルで小走りしていくおばちゃんが右から左へ。
室内にも関わらず日傘をさす、ロリータ服の少女が左から右へ。
それから、それから…。
この日もたくさんの人を覗いた。
誰も、私が見ているなんて気付いていないだろう。
そう思うと、少し優越感が湧き笑みがこぼれた。
何時間張り付いていたのだろうか。
ドアから離れ、ふうとため息をついた。
小腹がすいたので、コンビニへ食べ物を買いに行くことにした。
誰も居ない廊下は、シン…と静まりかえっていた。
私はしばらく、廊下で立ち止まった。
全てのドアから、誰かが、私を覗き見ている気がした。
『覗き見』
(text 服部 YU里江)
04.15.17:15
もそもそ
朝、目が覚めるともそもそと寝返りをうつ。
生温かなぬくい布団の中で、もそもそ。
布団の中からやっとの思いで、もそもそと這い出る。
もそもそ、もそもそ。
もそもそと歩き、戸棚からは食パン、冷蔵庫からはたまごを取り出す。
たまごはフライパンで、もそもそになるまで炒った。
食パンは焼かずにそのまま食べるから、もそもそとする。
もそもそ。
もそもそ、もそもそ、もそもそ。
もそもそ。
カーテンからは眩しいくらい光が差し込んでいる。
私は、もそもそと出かけた。
『もそもそ』
(text 服部 YU里江)
02.08.19:24
幸せの真似事
彼は私を大切にすると言った。大切だと言った。ではどうして、その左手の薬指には指輪があるのか。
私の薬指は寂しいのに、どうしてそんな優しい顔をしているのか。
生ぬるい関係が終わることが嫌で、いつも言えなかった。
恋人が居るということは知っていた。彼から口説いてきたんだ、まさか居るわけがないと冗談で聞いたのに、彼は私に隠し事はしたくないと正直にそう話した。ショックを受けたが、その頃はまだ彼のことをさほど好きなわけでもなかったので、気にしないと答えた。
ただ1つ、条件を付けて。
「私の存在が彼女にバレるようなことはしないで。」
次の次の日、彼と会った。群青色のジャケットにピンクのシャツとネクタイ、ダメージジーンズ。彼の服装のセンスにはほとほと飽きれたが、ひょろっと背の高い彼には不思議と似合っていた。
それまではちょっと買い物をしたりカラオケに行ったり、そんな友達のような仲だったけど、その日はもう違った。
彼はまるで、恋人を抱くように私を扱ってくれた。
体をなぞる指先はひどく優しい。吐息混じりに耳元で囁く言葉は、甘い猛毒。
温かい体温と、すべるような肌の感触。
かすれるような呼吸と視界の中で、彼の名前を呼ぶことは出来たが、好きだとは言えなかった。
彼の歪む顔と、詰まる言葉が大嫌いだったから。
好きとか、愛してるとか、恋人のこと。それは、私が触れてはならない領域だった。分かっていたから触れなかっただけで、いつもその領域に踏み込みたかった。
喉の奥から込み上げては吐けず、喉から肺に戻った言葉は行き場をなくし、心臓を締め付けた。
窒息してしまいそうな程に、苦しかった。
それからしばらく、彼は私に会いたい会いたいと毎日連絡をくれた。朝におはよう、昼に仕事の労いの言葉、夕方に仕事終わったよのメールと、その日1日目立ったことの報告。夜は3時間以上電話。これが毎日続いた。
頻繁すぎる連絡に鬱陶さを感じつつも、嬉しくて、幸せだった。だって私に時間を費やしている間は、私が彼を独り占め出来たのだから。そんな錯覚をしていた。
押せば倒れるもろい幸せだと気付きながら、目をそらした。
「結婚するんだ。」電話越しの彼の声に、私はどんな顔をしたのだろうか。
空っぽの心臓に何か痛みが響いた。
私と体の関係を持っているのだから、てっきり上手くいってないのだと思っていたけど、恋人に何の不満も無い円滑な交際が続いていたようだった。そろそろ結婚するにふさわしい年齢の彼だ。
私はただただ「おめでとう」の言葉だけを吐いた。
めでたい!と、空回るように明るく喜んでみせる私に、彼は言葉を詰まらせた。おめでとうの言葉さえも、私には言われたくなかったようだ。
この関係は、彼が結婚してしまったら終わってしまうのだろうか。その夜は、眠れなかった。
元気がないねと、彼は私の頭を撫でた。
その手をとって握ると、彼の手はとても温かくて、その体温にすべて誤魔化されて騙されてしまいそうになった。
「この関係は、結婚したら終わりかな」
嫌みを言うように低い声で話す私に、彼は詰まらせながらも言葉の毒を盛った。
「俺達は友達なんだから、そんな必要ないよ」
毒に侵されてしまったようだ。
「…幸せ」
言葉は嘘つきで、体温は罠。
手に入らない彼を、私は
『幸せの真似事』
(text 服部 YU里江)
02.08.19:04
海底
前から三両目のこの車両は、暖房がかかっていないため寒い。
加えて年末だから乗車する人も少なく、車内はシンと静まりかえっていた。
足元だけがどうにも寒くて我慢できないので、つま先に力を入れたり緩めたりしてみたが、何も変わらなかった。しだいに飽きて止めた。
空は群青色。
地平線だけがオレンジ色を帯びていて、まるで熱帯魚のようだ。
遠くの街の灯りをきらきらと纏っている熱帯魚は、どこか寂しげに見えた。
街が遠いため、車窓から見ると電車は黒い海の上を走っているようだった。
どこかで見たSF映画のワンシーンのようだ。
地平線のオレンジ色も消え、いよいよ外は闇に包まれた。
黒い海の中に、電車が沈んでしまったようだ。
ガタンガタンとか、ゴウンゴウンという音しか響かない電車は、潜水艦に早変わり。
海底探索だ。
街頭でぼんやり見える車は深海魚で、踏み切りが開くのを待つ人々は海底人。
潜水艦の中に居る私は、海底調査員の一人だろう。
そしてふと正気に戻る。
馬鹿らしくなり、自分のことをフンと鼻で笑って目を閉じた。
ウトウトとしてきた頃に気付く。
到着した駅で、黒い海の中へと進む私は、海へと帰ってゆく人のフリをしていた海底人、か。
『海底(うみぞこ)』
(text 服部 YU里江)
02.08.19:00
夢回廊
汚い廊下だ。なんて汚い廊下だろう。
壁にかけてあった鏡を覗けば、金髪の長い髪がぼさぼさに広がっていて、化粧もくたびれた自分の顔が映った。
だがそんな自分の姿など気にしていられないほど、この廊下は汚かった。
足元から、ずっとずっと先まで続くこの廊下。先が見えない。
とりあえず歩いてみると、ゴミからバキバキとかグシャグシャとかいう音がした。
ああ、もう邪魔だ。
私はしゃがんで、ゴミをかきわけた。
落ちていたビニール袋にゴミを詰めていくと、廊下全体にはおびただしい量のゴミがあるのだが、その一帯だけは綺麗になった。
床はエメラルドグリーンをしていた。
ガシャガシャとかバリバリとか、ゴミは色んな音がした。
無心でそれらをビニール袋に詰めていると、途中で、なくしたレターセットが出てきた。
いつぞや、誰かに手紙を書こうとした時に買った、黄色に黄緑のドットが描かれたレターセット。
懐かしさにふけっていると、ふと、懐かしい香りがした。
そこには愛らしい花が一輪落ちていた。花びらの先端だけ紫色をしている白い花。
昔どこかで嗅いだ香りだが、記憶の端に埋もれてしまったのか思い出せなかった。
構わずゴミ袋に詰めていく。
ガチャンガチャン、袋にはまだまだゴミが入った。
キラリと光る、小さなものを見つけた。
見たことも無い、持っていたのかも分からない、涙の形をしたラインストーンが出てきた。
1つ拾うと、もう1つ。手のひらに集めたそれはとても綺麗で、転がしたり眺めたりしているだけでもうっとりした。
雪のようにも見えたし、人魚の涙のようにも見えた。
とにかく綺麗だ。
なくさないようにと、ポケットに詰めてまた作業をする。
無我夢中に、一心不乱に、ゴミを詰め続けた。
どこまで続くのだろう、どれだけゴミはあるのだろう。
何時間ともいえぬ膨大な時間、ひたすらゴミを詰めることだけに集中した。
すると、ゴンッと音と共に頭に衝撃が走った。
廊下の端っこだった。端に来たのだ。
長かったその廊下、自分の片づけた道を振り返ると、目が覚めた。
呼吸をしていなかったのか、ハッと吸いこんだ空気で生き返った感触がした。
洋服を着たまま寝ていたようだ。
鏡を覗けば、金髪の長い髪がぼさぼさに広がっていて、化粧もくたびれた自分の顔が映った。
時計は朝の8時を指していた。
やってしまったと、急いで出社の準備を始めたが、今日は休みではないかと気付き、腰を落ち着かせた。
頭をかき、ポケットに手を入れると、何粒かラインストーンが出てきた。
涙の形をした、キラキラと光るそれは、何度見てもうっとりする輝きだった。
観賞にも飽きた頃、机にそれを置き、朝ごはんを買いに近所のコンビニへと赴いた。
そういえば、ここのところたくさん泣いた。
ふられたり、仕事で失敗をしたり、精神的にグシャグシャになっていた。
ただ、晴れているせいか、風がびゅうっと吹き荒れているせいか、心はスッキリしていた。
いつもではありえないくらいゆっくり歩いて、コンビニでは好きなものを好きなだけ買った。
ビニール袋を大きく揺らし、またゆっくり歩いて帰った。
走り出すのも悪くないと思うくらい、気分が良かった。
家に着くと、テーブルの上に置いておいた、涙の形のラインストーンが消えていた。
床を見渡して落ちていなかったので、探そうとはしなかった。
『夢回廊』
(text 服部 YU里江)
02.08.18:27
猫
この街は忙しない。
どこを見渡しても、人々は走り回り、押し合い、それが不快と不満を呼び合っている。街は灰色に色づき、空はいつも曇り空。もっとも、この街では空を見上げる暇もないので、晴れていようが曇っていようが気にもならないが。
なんてめまぐるしいのだろう。この街は、飼い鼠が車輪を回すような速さで時間が過ぎていく。
当然その流れについて行けず、あぶれ、余り、邪魔だ余分だと言われるモノが出てくる。
者も、物も。
それらがまた、街を灰色に染め上げる。
その退廃的な景色に芸術性を感じるという輩が居るが、俺にゃあちっとも理解出来ない。
だが、たしかに散歩ルートとしては面白みがある。住みたくはないが行きたくなるのさ。
そろそろ日が暮れる頃。
日が暮れる前に、魚屋の親父に媚びて、一匹いただいて帰ろうか。
『猫』
(text 服部 YU里江)
12.12.23:36
マリオネット
マリオネットは忘れていた。自分が糸で繋がれているということに。
無理もない、生まれた瞬間から糸という存在に繋がれ、動かされてきたのだから。
彼女は赤いドレスを纏った姿が自慢だった。
ステージに立てば「美しい」ともてはやされ自身の姿に自信があった。
もっとたくさんの人々に自分の姿を見てもらいたい。褒めてもらいたい。
そう思うようになっていた。
しかし彼女の主人といえば、死んだような目をして、無精ひげを生やして、恋人に最近フラれてクマをつくっている冴えない男である。
こんな主人のもとに居ては、自分は一生この狭い視野の中でしか生きられない。
一度そう思ってしまうと、主人には不満しか持てなかった。
くすぶっていたくは無かった。だから彼女は糸を切ることにした。
プチン、プチン。
右手の糸が切れ、左の足の糸が切れる。糸は全て簡単に千切れた。
乾いた音と共に、彼女の体は地面に落ちた。
石畳の床は痛く冷たかったが、彼女は満足していた。
さあ、これで私は自由だ。もっと広い外の世界へ行けるのだ。
足を動かそうとしたその時、彼女は目にした。
あの煌びやかな衣装を纏った人形は何だろう。
サファイア色のドレスに金のレースをあしらって、大きく膨らんだドレスはとても麗しい。
彼女は自分の自慢のドレスが色あせていることに気付き、恥ずかしくなった。
燃えるようなルビー色のドレスだったのに、今は見る影もない。
あれが自分の代わりなのだろうか、物悲しくなり目を背けようとした。
顔を覆うとした。
走り去ってしまおうとした。
何も出来ない。
華麗に舞い人々を喜ばせたその身体は、冷たい石畳の上に叩きつけられたままだった。
助けてちょうだいと乞うても届かず、主人は代わりの人形を手にして客席へと向ってしまった。
外の世界で自由になりたかっただけだったのに。
冷たいそこで、彼女はやっと気がついた。
『マリオネット』
(text 服部 YU里江)
12.12.22:56
人間
少し空想的な話をすると、きっと人は生を受ける際に「生を受けたいか」と神に問われただろう。
知ってか知らずか、私は「はい」と答えたから今ここに居るのだ。
私は彼女に問うた。
「なぜ私は生まれたのか。」彼女は誰かと共に生きるためと答えた。
馬鹿らしい。誰かのために私は生まれたというのか。
そうやってお前も誰かを自分のために共に歩ませるんだ、と彼女は口元をつり上げ言った。
お前は悪魔か。悔しさで彼女に暴言を吐くと、そんな大きな力は持ちえていないと彼女は真顔で言った。
ならばお前は魔女かと問うと、魔術なんて到底使えないと答えた。
鬼め、畜生め、何を言っても彼女は当てはまらないという。
では、お前は何だ。
彼女は高らかに笑った。人間だ、と。
『人間』
(text 服部 YU里江)
08.19.19:55
その扉
幽霊とか、UFOとか、怪奇現象とか、奇跡とか。世の中には色んな不思議な出来事がある。ならばそれが、今、ここで起こったとしても、なんら不思議なことではないじゃないか。むしろ起こらないほうが不思議なのでは。
ごくり、と生唾をのみ、その扉に手をかけた。キィッと扉が鳴り、仕切られていた空間と空間が繋がる。空気が相互する瞬間のその先に、答えは待っていた。
平均して30分くらいが自身の入浴時間である。湯船からあがり、シャワーで再度体を洗い流し、いざ浴室から出ようというその瞬間、考えがめぐった。
もしこの扉の向こうが、何らかの原因で異次元に繋がっていたらどうしようか。
異次元に繋がっていなくとも、次元が歪んで、別の場所に繋がってしまっていたらどうしようか。例えば、あるマンガの世界に入り込んでしまうとか、誰か違う人の家に繋がってしまうとか。そうしたらなんと気まずいことだろう。入浴していたといえど、裸だ。せめてタオルがなければ、その先の世界で会う人に、なんと言い訳をすればよいのだ。ただの露出狂と間違われては、元も子もない。2次元だろうが3次元だろうが、ブタ箱行きは確実だ。
しかし、いつまでも浴室にいるわけにもいかない。
「ええい!」
覚悟を決めて、扉のノブを握った。なるようになれだ。未だかつて味わったことの無い緊張感で、浴室の扉を開けると、そこは、
いつも通りの脱衣所だった。
ふぅ、と、ひと呼吸し、何事も無かったようにタオルで水気を拭き、寝巻に着替えた。
しかしまだ気は抜けない。この脱衣所の扉を開いたら、もしかして、南極に繋がっているかもしれないではないか。もしくは、砂漠に繋がっている可能性だってある。100パーセントがこの世に存在しないのなら、無いとは言えない可能性だ。
もし別世界に繋がっていたとして、この、風呂上がり寝巻姿で対応出来るのだろうか。対応出来る土地だと良いが、何かのパーティー会場だったり、気候が著しい世界に飛んでしまっては、どうすることも出来ない。
ドキドキと心臓の音が聞こえてきそうな空間。本来、脱衣所では流れるはずのない空気感だ。
ガチャリッ。
ノブを回すと、そこは、またいつも通りの家の中であった。と安心する同時に、少々疲れが。自身の過ぎた妄想に「ありえるわけがない」という言葉を重ねた。100パーセントだって存在するのだ。濡れた髪から水滴が落ち、寝巻にシミを作る。しかしドライヤーで乾かすのは面倒で、風邪をひこうがどうしようが関係無いと、そのまま自室でくつろぐことにした。
自身の妄想を自嘲しながら廊下を進み、自室の前に辿りつく。
やはり立ち止まった。「…ありえない。」
ドアノブを回す手が汗ばんだ。
扉を開いた時に起こる風が、前髪を揺らした。
『その扉』
(text 服部 YU里江)
08.19.13:23
夏の景色。
「死ぬほど好きだった…」
「死んでないじゃん。」
そう言うと、彼女はまた泣いた。正直うざったい。ゆるく巻いたミディアム丈の髪が、しゃくりをあげるたびに優しく動いた。表情は見えず、泣き声が聞こえるだけ。
夕暮れで、街は赤い。べたつく湿気、湿気で上がる気温。それだけでも気分を害すのだから、これ以上、いらいらしたくは無かった。「ごめん」と言う気も、頭をなでてやる気も起きないほどに、いらいらしていた。せめて冬なら、もっとロマンチックに別れ話も出来たのかな、と、思考はぼんやりとゆっくりとしか働かなかった。全部、暑さと夏のせいにしてしまいたかった。
さよならのひと言も無く、その場から離れた。追いかけて来てすがられるかと思ったが、彼女は立ちつくし泣いているだけだったので、こちらには好都合だった。
夕立でもくるのか、雨の匂いがした。街の赤、湿気の感触、涙、雨の匂い。不快な景色の中に、ひぐらしの声も加わる。夏の景色の中に、彼女も思い出も、どろどろに混ざり合って溶けていった。きっと来年の夏になったら、また思い出すのだ、彼女のことを。
夏の景色は呪いだった。
『夏の景色。』
(text 服部 YU里江)
08.19.12:48
甘い飼育
まるで少女のように白い肌。少し長い茶髪はピンと真っ直ぐで、瞳には吸い込まれそうなアッシュグレーのカラーコンタクト。薄暗く狭い会場のステージには、仄かな照明で彼の姿が浮かぶ。ひと言ひと言、紡ぐよう丁寧に曲を歌い上げながら、彼は客席に微笑みを浮かべた。柵にもたれる数人の、本物の少女達は、ひと時も彼から目を離さず彼に笑顔を向けていた。くるくると巻いた髪からは、時々、甘い香水の香りが漂ってきた。
「お疲れ様ですぅ」
「これ差し入れと手紙です!」
「今日も最高でした~」
ステージから降りた彼に、少女達は駆け寄った。少女達の甘い香りが強くなった。しかし、嫌な匂いでは無い。
「ありがとう」
彼が人形のように微笑みを浮かべると、少女達は喜んだ。彼は差し入れと称されたプレゼントの封をその場で開け、気に入ったものだけを取り出し、「これ、好き」と笑ってみせた。少女達は一瞬、目の色を変えた。
「エムシー面白かったですー」
「そういえば、ブログで…~~」
「次のライブも楽しみにしてます」
少し話をした後、少女達は去って行った。少女達はおのおの頭の中で何かを考えているため、表情がどこか上の空だった。
「またね」
少女達の背中に、彼は微笑みを浮かべた。
『甘い飼育』
(text 服部 YU里江)
08.19.12:44
真冬の金魚
青い空はどこまでも広かった。夏特有の綿あめのように大きな雲も、目を細めるほどに眩しい太陽も、両手をいっぱいに広げたくなる空気も、何ものにも捕えられない自由があった。
「絵にも出来なければ、写真にも収まりきらないわ、この景色は。」
祖母の家の縁側に祖母と2人きり。私が空を見つめながらそう言うと、祖母はわっはっはと盛大に笑った。笑ったと同時に、パーマをあて2つに結ってある髪がバインバインと揺れたので、私はそっちに吹き出しそうになった。
都会の空は狭い。ビルの隙間から見える空はキュッとしていて、まるで建物に捕まってしまったようだ。きっと、金魚鉢の中の金魚が見ている景色と似ているのだろう。狭い、けれど、それが世界だった。
「都会が嫌なら、こっちに住めば良いじゃないか」
祖母が言った。それはそうであるが、そうもいかない。都会にないものがここにはあり、ここには無いものが都会にはある。私が返答に悩んでいると、なんぎだねえと呟きながら、祖母が氷の入った透明なグラスに、麦茶を注いだ。コポコポコポ、ピシッカラカラン。麦茶と氷の奏でる音が心地良かった。冷えた麦茶を注がれたグラスは、外気の熱に影響を受けて汗をかき、水滴がグラスを伝い、床に円を描いた。
私は床に這いつくばり、麦茶を通して空を見た。
「やっぱり空は綺麗ね。金魚もこんな気持ちで空を見ているのかしら。」
肉眼で見るのと違い、ゆらゆらと揺れる空。光はきらきらと水面を彩る。それは、海の中に沈んでしまったような、幻想的な光景にも見えた 。もうすぐ夏が終わる夕暮れ時。蝉の声は聞こえない。祖母は、何も答えなかった。
目を覚ますと、そこは祖母の家の縁側ではなく、自分の家の廊下だった。フローリングの床は冷たくて、手足がジィンと麻痺するほどまでに冷え切っていた。しばらく放心していると、突如廊下中に、キィキィとした母の怒鳴り声が響いた。
「あんた何やってるのそんなところで!風邪ひくわよ!」
突然のことで、心臓と肩が一緒に跳ねた。渋々体を起こし、眉を寄せ、頭を掻きながらその場にあぐらをかくと、邪魔よと、またもや叱咤され、私は廊下を後にすることとなった。そして、ぬくいこたつに移動したところで曖昧な意識が覚醒した。
「…あれ。」
あの夏は、とうに終わっていた。
こたつの上には、屋台でとってきた全身朱色の金魚が、まばたきもせず、透明な水槽の中で優雅に泳いでいた。エゴで人に飼われ、この金魚は可哀想だ。しかし、今更池に帰しても、金魚は水温やエサに苦労し、あげく自分がエサになってしまうのだろう。結局、人に飼われるしか術がない金魚は、やはり可哀想な存在だった。
「お前も水槽の世界は狭いかい?なんなら一緒に、今の環境を飛び出そうか。」
そう私が問いかけると、金魚は威嚇するように、思いきり水面を蹴った。びちゃっ。
『真冬の金魚』
(text 服部 YU里江)